三国志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 挹婁

挹婁在夫餘東北千餘里ゆうろうふよのとうほくせんよりにあり濱大海たいかいにひんし南與北沃沮接みなみはきたよくそとせっし未知其北所極そのきたはきはまるところをしらず其土地多山險そのとちやまおおくけわしい其人形似夫餘そのひとがたふよににて言語不與夫餘句麗同げんごふよくりとおなじにあらず有五穀ごこくうしうま麻布まふあり人多勇力ひとおおくはいさましくちからあり無大君長たいくんちょうなし邑落各有大人ゆうらくおのおのたいじんあり處山林之間やまとはやしのあいだにところし常宂居つねにけっきょし大家深九梯おおいえふかさきゅうてい以多爲好おおいをもってよしとなす土氣寒つちけさむく劇於夫餘ふよよりはげしい其俗好養豬そのぞくよくいをやしなひ食其肉そのにくょしょくし衣其皮そのかはをころもす冬以豬膏塗身ふゆはいのこうをみにぬるをもって厚數分かずをわけてあつくし以禦風寒もってかぜさむさをふせぐ夏則裸袒なはすなはちはだかにはだぬぎ以尺布隱其前後しゃくふでそのぜんごをかくすをもって以蔽形體けいたいをおほふ其人不絜そのひとふけつにして作溷在中央かはやちゅうおうにあるをなし人圍其表居ひとそのおもてをかこいている其弓長四尺そのゆみはながさよんしゃく力如弩ちからはどのごとくして矢用楛やはこをもちひ長尺八寸ちょうしゃくはっすん青石爲鏃せいせきをやじりとなし古之肅慎氏之國也いにしへのしゅくしんしのくになり善射よくうち射人皆入因ひとをうつはみな(目)にはいり矢施毒やにはどくをほどこし人中皆死ひとにあたればみなしぬ出赤玉あかだま好貂よいてんがでて今所謂挹婁貂是也いまのいはゆるゆうろうてんはこれなり自漢以來かんよりいらい臣屬夫餘ふよにしんぞくし夫餘責其租賦重ふよそのそふのせめるをおもくし以黃初中叛之もってこうしょちゅうにこれにそむく夫餘數伐之ふよしばしばこれをうち其人衆雖少そのじんしゅうすくなしといへども所在山險あるところやまけはしく鄰國人畏其弓矢りんごくのひとそのゆみやをおそれ卒不能服也つひにふくすことあたわざるなり其國便乘船寇盜そのくにふねにのればすなはちこうとうし鄰國患之りんごくこれをうれふ東夷飲食類皆用俎豆とういいんしょくのたぐひみなそとうをもちひるも唯挹婁不法ただゆうろうはのっとらず俗最無綱紀也ぞくはもっともむこうきなり

挹婁ゆうろう夫餘ふよの東北方向に千里以上離れたところにある。大海に面していて、その南は北沃沮きたよくそと接している。その北側はどこまでつづいているかわからない。 その土地は山が多く険しい。 そこに住む人の姿は夫餘と同じであるが、言語は夫餘や高句麗と同じではない。 挹婁の人は多くが勇ましくて力強い。 国の長はいないが、村ごとに有力者がいる。山と林の間で暮らし、常に洞穴に住み、大きな家は深さが九梯不明で多いことを良しとする。 土地の気候は寒く、夫餘より寒さが厳しい。 その風俗は、豚を養い、その肉を食べ、その革を着る。 冬は豚の膏を体に塗り、何度も厚く重ね塗りして風と寒さを防ぐ。 夏は服を脱いで裸になり僅かな布でその前後を隠して体の一部?を覆う。 挹婁の人は不潔で家の中央にかわやかわや・便所があって人はその周りで暮らす。 その弓の長さは四尺あり威力は弩のようで、矢はを使い、長さは一尺八寸で青石あおいし青みがかった石、緑泥片岩などやじりにする。 挹婁は昔の肅慎しゅくしん氏の国である。 矢を射るのが上手で、人を射るとすべて狙い通りに因は目の誤字のようてる。鏃には毒を施して、人に当たると皆死ぬ。 赤玉琥珀・碧玉を産出し、良いてんイタチ科の動物、その毛皮が獲れる。現在のいわゆる挹婁貂はこれのことである。
中国の漢より此の方、挹婁は夫餘に服属していたが、 夫餘は挹婁に対してその年貢や労役を重く課したので魏の文帝曹丕の治世の最初の元号黃初中こうしょちゅう西暦二百二十−二百二十六年に夫餘に背いた。 夫餘はしばしば挹婁を討伐したが、挹婁は人は少なくともその国の在るところは山が険しく隣国の人は挹婁の弓矢を畏れ、結局夫餘は再び挹婁を服属させることはできなかった。 その国挹婁は船に乗れば強奪を行い、隣国にとって心配の種になった。 東夷とういの国々は飲食には俎豆そとう大きめの高坏たかつき形の食器を使用するが、挹婁だけは当てはまらない。その風俗は東夷の中で最も法や決まり事やが無い。